手の届く範囲(もしくはそれ以上)
ともかくさむい。
仕事帰りに歩いていたらケーキ屋に貼られてあった張り紙。
ヨレヨレになるのでごめんなさいね、の文字にまだ先だと思っていたクリスマスと小さな愛おしさを感じた。程よい程度に幸あってほしい。
9月から観ていたいくつかの舞台。
『スリル・ミー』
3ペアで『私』と『彼』、プラスピアノのみが舞台に立つ栗山民也演出のミュージカルで、私が観たのは尾上松也と廣瀬友祐の回だった。
尾上松也が生で見たかったのと、2018年の時だったかの公演で震えるほどTwitterで公演中から公演後も呟き続けている人を見たことがあったので、今回は謎の使命感にかられて観に行った。
『私』にとって『彼』は自分が歩んでいる道から外れても、例え『彼』を少しも信用していなくても、祈りのようなひとつの輝く道標ような存在だった。
信用していないからこそ、すべてを丸めこんでひとつになった。
10年くらい前の私の体力ならのめり込んでエンドレスで観たかもしれないけれど、今の体力では各一公演ずつ違うペアの解釈も観たかったと思う。
仕事場の人への感想は「家系ラーメン背脂チャッチャ系を観た」
『ロスメルスホルム』
今年のチケット運がよかったのか、前の方や2階1列目で観ることが多かったが、この時も全体を見渡せるいい席にあたり、思う存分三浦透子を堪能できた。
これこそ愛とは、信念とは、祈り、呪い、野望、全てが抜け殻になった人が見ることができる、見ると死に至ってしまう白い馬の幻。
同士であると信じていたのにそれが実は愛や野望から発するものだったり、愛や野望から発生したものが高潔な信条に変わってその場から抜け出せなかったり。
周りの人は下衆な物言いや、誰が誰を味方につけるか、敵になるかを考えるがそれは些細な問題で、2人にとっては思想上では同士であり、お互い心の内を隠す。
人は、ころころと思想を変える瞬間がある。
よく変わる人もいるが、天恵が落ちて来たように否応なく変えられてしまう人もいる。
体では表せられないどうしようもなくもどかしく、上手く言葉にできなくて、ついさっきまで話していた言葉を翻す。
最後にロスメスとレベッカが、ロスメスが妻が亡くなってから渡れていなかった橋を渡り、高尚な世界に行ってしまうこと。
過去の重責、呪いを解き放して旅立ってしまうこと。
この舞台は再演をしたらもう一度観たい。
この舞台も栗山民也演出だった。
舞台は、やっぱり楽しい。
生、感情、をぶつけてくる。
三浦透子が素晴らしかった。