Instagramのノートはこの気分。
公式のMVがなくて心がしゅんしてしまう…。
昼がどんなに暖かくても夜になるとさむくなる。でも春が来るより冬がきたら微笑ましくなるのは、マフラーをもふっと巻く男子や女子だったりする。
9月から何故か映画より舞台を観ている。
見た映画。
『福田村事件』
森達也監督、初監督作品。
映画を見終わったあと購入した『福田村事件』のパンフはとても太くてそのまま埋もれた歴史の厚さを知ったような気がした。
これでもか、これでもかというほどのこの事件を知らしめるための熱量、そして何もできない絶望。人をランクで分けるその圧倒的な日常。
何が違って何が一緒なのか。一緒ということすら拒否をする。
それがまだ地続きで続いている現実。トラウマからどうしようもなく声小さくたちすくむしかできない澤田。デモクラシーを夢見ている村長田向が迎え入れざる得ない現実。
「この人は○○だから」は結局は差別でしかない。
見終わった後に、この澤田夫婦はどこに向かって行くのだろうと思った。
何が正しくて(官は正しくない設定で書かれるが)、何が正しくないのか、その流れに空気に追従するのは、反対するのはいいことなのか、悪いことなのか、仕方ないことなのか。
千葉新報だっかのマスコミの女性のみ今どきのセリフを訴える。
「なんで!なんで、こんなことになるのか!朝鮮人はどさくさに紛れて何かを私たちにしようとするのか!なんでそう思うのか!それを扇動しているのは私たちマスコミではないか!」のような声を出しているがこれは全く世に反映されない。
この映画の女性は世界に声をあげている。あげれる範囲で。
映画の帰りに森監督の本を購入した。
普通の人たちがなんともなく押すスイッチ。
見たことがない世界が潜んでいた。
ついでに森監督のドキュメンタリー映画も見た。
アマプラにこの前まであった。
この普通が許されないマスコミの報道が求めている視点と違うとそうなってしまうよな、と思ってしまう。
武田砂鉄さんとの対談はまだ聴けていない。近々聞く予定。
あまり関係ない話だか私の好きだった小説家がある時急に世の中でいうところの陰謀説に飲み込まれた人になっていた。その時はTwitter(X)で呟いていたが今の主な居場所はFacebook に移動している。
時々、投稿を見てしまう癖をどうにかしたいがあの人は今の世界の紛争を述べていた。
あの人にとっては私が陰謀論に取り憑かれていると思うのかもしれないが、私にとってはあの人が陰謀論に取り憑かれていると感じて、大きな溝が生まれている。
どこで私たちは方向を違えてしまったんだろう。
『ゴジラ -1.0』
山本貴監督の作品。
見る気がなかったのだが、仕事場の人から「3丁目のゴジラ」と言われたのと、tohoの6回見たら1回無料があったので鑑賞。
Twitterで「百田と永遠の0」からの脱却という感想もあったので見に行った。
このゴジラは、戦争が終わった後どうしようも死に際も行き方もわからなかった人たち(主に男性)の未来に生きるための概念のような気がした。
別にゴジラ、いらないのでは。でもゴジラを取り巻く世界は何か現実と虚構に塗れて人が死に、ある人は死場所を探す。
ゴジラは何を目的に東京を目的地に選んだのか。何故自分の縄張りにしたのか。
何故あの人たちが東京、広くは日本を守るために立ち上がったのか。
結局ゴジラは戦争で死んでいた男性たちの生きる糧としての概念として日本に現れて最後海底深くに眠りにつく。
本来ならゴジラの位置付けが朝鮮戦争だったかもしれない、冷戦だったんだろう。あとビキニ環礁とか。
でもそれをゴジラという概念で、これからも生きる、を定める映画というのが私の感想だった。
『アルキメデスの大戦』で示された滅びゆく国の依代としての大和より人が生きるために犠牲になるゴジラ。
映画ゴジラを見るのは初めてだったが、ゴジラはいつもこれほど切ない存在なんだろうか。
ゴジラが出した砲撃の後に降る雨が黒い雨だったのは、ルーツを世襲しているんだろう。
映画としては、未来が待っているのが見えてよかった。
後は見た舞台。
『スリルミー』
『ロスメルスホルム』
『ガラスの動物園』
『消えなさいローラ』
舞台は書ききれないのでまた書く。
めちゃくちゃな文章で。
書きたいように書く。
文章が上手くなりたい。