いちにち

わすれないように

朝起きて

朝起きたら、スマホTwitterがXになっていた。iPadはまだTwitterのまま。

Twitter(X上で)でダサいと言われている時点で皮肉)ださいと言われていてネタだろうと思っていたが、実際自分がそうなると本当にダサいな、としか思わなかった。

使い勝手は去年から悪かったのでほぼ検索と日記としか使ってなかったな。

他のアプリもダサいのはたくさんあるし、ダサいと呟くのはやめた。

逃げ道としてあげられているマストドンは、サークル的なものに入らないといけないようなのでめんどくさく、Threadsもしている人やするのをやめた人の話とインスタと連携するのが嫌でやめた。

Twitterは、今年に入ってからの舞台や映画の記録をしているので今年いっぱいは続ける予定。

 

5月に体調を崩してから、1ヶ月感覚がずれている感じがする。

最近、近しい(と思っている)人たちと何回か飲み会があり、そのたびに映画の話になると、自分が情報を仕入れてないことに驚く。『ヴァチカンのエクソシスト』も初めて知った。

ラッセル・クローだったのか。

 


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その時期に見ないといけない映画であったり、出会わなくてよかった映画もあったりするが、今日2回目の『怪物』を見に行った。

 


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公開してから2ヵ月近くになるのに何故か満員。

この映画、公開前はまったく行く気になれずスルーする気だっだのに、見に行った方のツイートが頭に残ってしまい見に行ったんだった。

 

(リンクをうまく貼れなかった)

このツイートを見て行ったと言っても過言でもない。

狭い世界の狭いルール。いじりという名のいじめ。依里(漢字を間違えているかも)は友だちはいないと言いながら同級生の女子は、なにかと依里に構っているけど男子がいじる対象と見ると今までの優しさから無関心になってしまう。

教室で湊が依里に助けたい気持ちとアイデンティティの間に映る、BLを読む湊の隣の席の女の子。

これは、身近な人たちで妄想する悪い癖。ずっと深くいくと搾取ではないかと思う。

以前、『目に毒すぎる職場のふたり』を見た時におもしろいけど、複雑な気持ちになったことを思い出した。

 


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職場でBL展開を妄想するドラマだけど、こうなると同僚をキャラとして消化してしまうんじゃないか。自分への戒めとして心に留める。

 

あと、今日の2回目で隣の女子2人の内のひとりが「この2人は最後死んじゃうんだよ」(エンドロール中に話すのはクレーム言いたかったが)と言ったらその友だちが「何故?」と問い返し、また死んじゃうんだよの子が「泥が顔にかかって、生まれ変わる」のようなことも言っていた時も隣の子は「で?」を繰り返していた。

死がラストのきらきらは多くの人がその説を支持しているようで、1度目を見た時に湊が土砂崩れに巻き込まれて気を失っている間に見た夢だと思っていたので、初めて死亡説を聞いた時びっくりしてしまった。

死ぬ説なら、少し話が陳腐になってしまうのでは。

それまでと何も変わっていなくても、自分がそうかもしれない、ということを母親も元教師も知っている。助けてくれなくても、心に寄ってくれる人がいる可能性、希望を見出したい。

無自覚の攻撃性、好意の攻撃性、一般人をキャラ化することによる搾取。

 

美術の授業で依里の机が汚されて、その机を拭くタオルを投げられた隣の女子は、タオルを湊に渡す。

葛藤に塗れて湊は依里にタオルを渡すが、またそれによってまたいじりが始まる。

でも彼女は静かにその騒動を見ている。終始静かに見ている。

彼女がふたりの壁になりたい!という願望を持っていなければいい。

「小学校の先生の名前なんて覚えてないでしょ」は「小学校の同級生の名前なんてそう覚えてないでしょ」に私の中ではイコールになったし、そう言える保利先生の彼女の言葉はその時の心に傷を負わなかったか、押さえ込んだ人なんだと思った。

 

人は忘れていくから生きていける。

子どもの時間は一瞬で、きらきらして窮屈で、決められたルートで生きている。

母親が言った「白線落ちたら地獄」

常識から落ちると地獄になる。

 

常識ってほとんどローカルルールなんですよ。

だから最後は生きて終わって欲しい(是枝監督の解釈もそうらしいと聞いた)